Jul 10, 2010
BALL
錯乱のみだけで表現する芸術をときおり見かけるんですけども結論にでもどこかしらでもよいので良くも悪くも回答を含めることができる教養、もしくは強さ、決意がない芸術はそのもの自体が首を絞めているようにおおよそ滅びるのではないでしょうか。時代の大衆には受け入れられるかもしれないがもし本人が潜在的に先導を志しているのならばまずは何かしらの芸術的テーゼがないと意味をも失うのは自分と生み出された作品であるのではないでしょうか。又、等身を表現したいのならば特に考えることもなくのびのび奏でれば良いのだが私が述べたいのは潜在的に先導を志しているにもかかわらず錯乱のみの本人と芸術達の自らの誇大と煽る大衆の量である。歴史が都度に価値ある芸術を決定してきた、いわば自然にまかせても風化せず生き残った芸術をまずは君臨させ、さらにそこから相対的に判断するという謙虚さもいつからか宙に舞ったままただ人それぞれの感覚にゆだねるだけの芸術的価値観のみが存在しているのではないかという位の錯覚すら覚えてしまうのです。良質とはなにか?自己のなかから選び抜かれたであろうその芸術、そしてそれは本当に自分が選び抜いたものなのか?本能と感覚だけにゆだねるのは無意識ですら誰しもができること。次のステージと仮定し、もう一度見直すことで更なる感覚を研ぎ澄ますという行為を侮ってはいないのだろうか?姿勢がまだ見えぬものを与えてくれるということに冷めてしまったのだろうか?・・・したがってそのものを否定するのではなく量としてマイノリティでなければ価値基準そのものが不明瞭になり、相互同士がとてもつまらないものと化してしまうのではないでしょうか?錯乱しかできない自分に対する無知への謙虚さを踏まえる、もしくわ未熟から脱したい姿勢があるのならば私は希望、歩み寄り、そして愛情を注がせてもらわなければならない立場と化し、そしてその相互からのテレパシーは必ずお互いが栄える愛情を持ち合わせながら気づてしまいます。言い添えるならば錯乱を難解に見せるのはたやすいことです。無論それは難解ではないからです。本当の難解は誠意と長い時間を費やさなければ到底太刀打ちできるものではないと思います。シンプルでも良いのです、まずはそこからスタートしているということが絶対的に美しいのですから。無音からの一音、もしくわ楽音が放たれた瞬間こそ芸術であるという純粋的思想を否定しているのではなくその思想を絶対とするにはどうしてもピークを通過しすぎてるとしか私は思えないのです。すべてものが同一された途端それぞれの価値は失われてしまうのですから。そして日々がんばらなければならないのは一番の隣人、自分です。そして芸術は私にとって必要なエッセンスを見せてくれるなかなかのものです。程ばかりではございますが実は芸術を語ろうとはしておりません。漠然とでしか私には語れませんがニヒリズムを通過してしまった人間へのささやかな道しるべと自らを震い立たせる行為として日々確かめているのです。
